【2011.3.11東日本大震災】当時高校生だった私のリアルな経験談

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こんにちは。ぽじもじカウンセラーのまりです。

私は港町「宮城県気仙沼市」に生まれ、小さい頃から海がすぐ側にある生活をしてきました。
今日は私の人生の中で最大の出来事と言える、東日本大震災の経験を語ります。

2011年3月11日に起きた東日本大震災。被災地と呼ばれる場所に居た人も、そうでない人も色んな思いを抱き、皆それぞれ色んなエピソードがあるのではないでしょうか。

その1つとして、私のエピソードを紹介しますね。できるだけリアルに書くつもりなので少々重たいところもあるかもしれないけど、ぜひ読んでほしいです。

東日本大震災当時

当時私は高校2年の終わり頃。期末試験を終え、春休み目前ということでその週は午前授業だった。

その日も午前で授業が終わり、当時ほぼ帰宅部みたいなものだった私は母が車で迎えにきてくれて帰宅。(交通の便がよろしくない田舎では、親が車で送り迎えをしてくれるはよくある話)

東京の大学に通っていた2つ上の姉も、春休みに入っていたので帰省中姉は普段全く帰省しない人だったのに、この春休みだけたまたま帰ってきた。もし東京にいたままだったら、私たちのことが心配でおかしくなってたんじゃないかと思う…。帰省してくれててよかった。奇跡。

父は仕事で家にはいなく、母と姉と3人でお昼に前日キムチ鍋をした残りものでキムチうどんを食べた後、2階の部屋で1人一息ついていたその時、それは起きた。

最大震度7の地震発生

私の地元の気仙沼市は昔から地震はよく起こるほうだったから、震度5レベルだとそこまで焦らない。でもさすがにあの日の震度7の揺れは焦る焦る。

揺れの中、走って1階に降り、母と姉と外に出て、隣の家のお母さんも出てきて4人で固まって揺れが収まるまでうずくまっていた。このまま地面が抜けてどこかに落ちていくんじゃないかというような感覚。

この世が終わったかと思った。

それからはサイレンが鳴り響き異様な雰囲気に包まれていたが、この時点ではこの後 “津波” がくるなんてことはあまり考えていなかったと思う。

地震が収まってからどのくらい時間がたったか分からないが、父が帰ってきた。父は漁業関係の仕事をしていて会社は海のすぐ側にあったが、渋滞をうまく回避して帰ってこれたのだと言う今思うとこれも奇跡。

それからしばらくして津波がくるかもとご近所皆がザワザワし始め、私達もいざとなれば山奥に逃げる準備をしていた。このくらいの時間から確か雪が降っていたと思う。

我が家は、海との距離はそう遠くないが高台に位置している。結局避難はしなかった。

津波の到来

津波が押し寄せてくる光景を、ご近所皆で呆然と見ていた。波というよりは、ブルドーザーでものが押されて向かってくる感じ。あっという間のことだった。

我が家までは到達しなかったため、幸いにも家は無事だった。ただ、ライフラインは全て途切れ、寒さと暗さと不安の中、その日は家族全員で同じ和室で寝た。

余震が絶えなかったため、すぐに外に出られるように靴を履いたまま寝た。人生で1番不安な夜だった。

ライフラインが全滅しサバイバル生活のはじまり

朝が来て、被害が大きかった街中を見てあまりの変わり果てた姿に衝撃を受けた。光景も、においも…本当に胸が苦しかった。

少しずつ現実を受け入れながら、とにかく生きるために必死だった。

「〇〇のスーパーが開いたってよ!1人3個まで買えるって!」とか「〇〇小学校に何時に給水車が来るってよ!」という情報を、道で人から聞いては行って並ぶというようなことを姉と2人でしていた。

食事は母がサバイバル力を発揮してくれたり、ご近所同士の助け合いのお陰でなんとかやっていけた。

周囲との連絡は、電波の調子がすぐには良くならなかったり、携帯の充電も近くの防災センターにしに行かなければいけなかったりとなかなか難しく、ごく僅かな友達とたまに連絡がとれるくらいだった。

「◯◯さん家は全壊らしい。」「◯◯ちゃんのご家族が亡くなったらしい。」少しずつ、周りの人達の状況を知ることとなる。

ライフラインが完全に復旧したのは約1ヶ月後だったと思う1ヶ月間、多分まともにお風呂に入っていない。身体の乾燥はひどかったが、汚いとかそういうのは何も気にしなかった。

ライフラインが早いうちに復旧した親戚のお風呂を借りて震災後初めてシャンプーをした時は、全く泡が立たなかったのを覚えている。

当たり前にあるもののありがたさを本当に学んだ。

 震災後から約2ヶ月後に学校が再開

なんとか生活が安定してきた頃、ゴールデンウィーク明けから学校が再開し、久しぶりに友達に会えた。

各々、約2ヶ月大変な暮らしをしてきたはずだが、お互いにあえてあまり深く突っ込まなかった。本当に親しい友達以外は、聞こえてきた風の噂で、ある程度のことは察しそれについて会話するようなことはほぼ無かった。

「うちが一番ひどかった!」「うちなんてこうだった!」と主張するタイプはほぼいなかったと思う。

それからは、高3になったということもありそれまでの遅れを取り戻すように周りの皆は受験勉強に励んだ。私はというと震災前は「東京の大学で英語を学びたい!」と思っていたが、震災後、家族から離れる怖さを感じたため、できるだけ近い宮城県仙台市の大学に進むことに決めた。

センター試験の勉強はせず、高3の10月頃には推薦で合格あの頃本気で勉強をしていた皆の姿には本当に頭が上がらない…

そして11月頃から、時間ができた。

この頃、私は特に不自由なく生活ができるようになっていたし、街の悲惨な光景にも言葉は悪いが少しずつ慣れてしまっていて、ただ生活するだけの普通の人間だった。

そんな時。私のターニングポイントに繋がる出会いを果たす・・!

▼こちらの記事につづく

【出会いで人は変わる!】東日本大震災が人生のターニングポイントに

2018.02.23
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