【2011年3月11日】東日本大震災から7年が経った今伝えたいこと

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こんにちは。ぽじもじカウンセラーのまりです。

今日で、東日本大震災からちょうど7年が経ちます。

7年前の今日、地元宮城県気仙沼市で震災を経験し、私自身は家族や自宅の被害はなかったものの、非常に怖い思いをしました。

同じ被災地の人同士でも被害の大きさや心の傷の深さ。これらは本当に十人十色。

7年という時間が経ってもなお、傷が癒えない人がたくさんいます。

そんな人たちに少しでも寄り添えるように。

そして『真の復興とはなにか』『命の尊さ』について、常日頃から意識するのは難しいかもしれないけどせめて今日だけは、世の中のみんながこのことを考えてくれる日になればいいなという思いで、ある人に協力してもらいこの記事を書きます。

当時の彼にインタビューをさせてもらいました

今回協力してもらったのは震災当時私がお付き合いしていた人です。

高校2年生の時。同い年で隣の高校に通っていた彼と震災が起こる約3ヶ月前から交際がスタート。

ちょうど一番楽しい時期に震災は起きました。

彼の住んでいた家は地元宮城県気仙沼市の中でも津波や火災の被害が特に大きかった場所。
彼は震災によりかなりの被害を受けました。

家を無くし、そして彼のお母さんは津波の影響で亡くなってしまったのです。

今回私は彼に、「当時のことについて記事を書きたいけれど協力してもらえるかな?」というお願いをしました。

辛い思いを絶対にさせてしまうので無理にとは言いませんでしたが、彼は快く受け入れてくれて、泣きながら私の質問に答えてくれました。

「7年が経った今でも震災を思い出すと胸が締め付けられる。」

こう言いながら語ってくれたことに心から感謝し彼の当時の心境をインタビュー形式で綴っていきたいと思います。

Q. 震災発生から1週間のことを教えてください。

当日は高校で部活中。すごい地響きで校庭が地割れし始めている中、グランドにいた。雪が降ってきて校舎にみんなで避難した。
地震が収まって少しした頃に実家にいたお母さんからメールが来た。『今は迎えに行けないので待ってて下さい。』と。

その日はそのまま介護実習室のベットで1つのベットに5人で寝て夜明けを待った。不安と恐怖でおれはずっと起きて朝を迎えた。

2日目半数以上の保護者が迎えに来て友達は帰って行った。

3日目のお昼頃にまりとまりのお母さんが高校まで迎えに来てくれた。まりの家で少し眠らせてもらったけど、おれは不安な思いとお母さんからの『待ってて下さい。』の言葉を信じて高校に戻った。

1つ謝らなければいけない。あの日、大切な食料を使ってまりのお母さんが作ってくれたおにぎり。学校へ戻るとき持たせてくれたのに、学校ではまだ避難してきた人達もいて

『おれだけ食べていいのか?』『みんなに何て声をかければいい』

色んな事を気にしてしまい、ゴミ箱に隠す様に捨ててしまった。本当にごめんなさい。

その後は怖くて涙が止まらなかった。

お父さんとお兄ちゃんは当時仙台にいて、すぐに気仙沼に来ることができず4日目にお父さんが迎えに来た。

お父さんと合流後、実家の辺りは火事と津波で帰れるような状況でない事を聞き、父とその後2日高校で過ごした。

Q. 学校での避難生活後は ?

親戚の家にお世話になりながら、毎日実家のある地区まで通い母を探した。

途中祖父、祖母と会うことができ一安心したが、母の情報はないまま。避難所に考えられる所全てまわった。

1週間後くらいに火事が収まって、実家へ向かった。大切な物や物資を探していた。

探し始めて2回目の実家で扉の下敷きになっている人影をおれが見つけた。腰を抜かした。人が死んでる。父を呼び、確認してもらった。『これはお母さんだ。』父の言葉に涙が止まらなかった。

終わった。全てを失った。なんとか生き返ってとだけずっと願いながら泣いた。

毛布で包んであげ、家にあった家族写真を集め1人にはしなかった。お母さんが寂しがるから。その日は父と帰った。

Q. その時の心境は ?

生きた感じがしなかった。

なんでおれのお母さんなんだ。たくさんの人の中で、なんでおれなんだ。全員が同じ苦しみをすればいいのにと思った。

その後は母の手続きや実家の片付けでしばらく部活も学校も行けなかった。行く気もなかった。

自分の家族だけ助かれば。あの時お母さんもちゃんと避難してれば。

笑ってる人が憎かった。

津波より火事よりも他人が憎く思えた。辛かった。寂しかった。人生何もプラスなことは無かったように思う。

Q. 徐々に受け入れられた ?

現実を受け入れ始めたのは、母の死後、更に1週間はあった気がする。もうお母さんはいない。家にも帰れない。この先どうすればいいのか全くわからないまま、とりあえず生きているだけの生活。

親戚の家に祖父母も合流し、衣服も流されてしまった僕たち家族は小学校からの友達の家にお願いし着なくなった服を譲ってもらった。

最初は人の着た服なんて嫌だ。ちょっと抵抗があった思いだった。でも生きるしかない。衣服も食料も必死に集めた。

もう誰も失いたくない。隣にいるお父さんがやつれて来ているのは、すぐにわかった。自分が一番辛いはずなのに、必死に僕たち家族を守ろうと…。

それからの日々は、片道1時間はある実家へ歩いて向かい小さな台車で家財を運んでの日が繰り返された。泥まみれのアルバム、昨日まで着ていた服。何もかもがあの日で終わった事を実感した。

Q. お母さんとのお別れは ?

どの位経ってからの事か覚えてないが、母の火葬を行った。記憶の中では、人生で初めての火葬が母だった。まだ姿のある母との本当のお別れ。

信じられなかった。みんなは残念だったね。良いお母さんだったね。そんな事を言っている。

『うるさい。お前らにとっては親戚の子、友達そんな繋がりしかないくせに』

全員が邪魔だった。母とのお別れが僕にとってどんな思いか。

火葬する場所に入っていく母をじっと見つめていた。離れられなかった。もっと、もっと一緒にいたかった。親戚のおじさんに名前を呼ばれ肩に手を置かれたとき、もう涙が止まらなかった。

悔しくて悔しくて。本当にさよなら。ありがとう。お母さん。産んでくれて、17年間愛してくれて本当にありがとう。母に心の中で伝えた。

Q. その後新しい生活が始まったよね

父と兄が仙台へ戻り、僕は祖父母と親戚のお家にお世話になることになった。

不安だった。たまに遊びに行く程度の祖父母と毎日の生活。やはり、実家にいた頃とは違った。生活感の違いで家にいたくない日も出てきた。今までは、大好きだったおじいちゃんおばあちゃんと少しずつ距離を取る様になった。

部活帰りに帰らず一人でいる事も増えた。父たちのいない不安な生活に耐えきれなかった。ひとりぼっちに思えた。

Q. その姿をそばで見ていて私になにができるか考えてたな…

そんな中、僕の支えの1つがまりの家族だった。震災前から会った事はあったが、まさか震災後すぐに高校まで迎えにきてくれるなんて思っても無かった。

震災後のまりの存在は、僕の心の支えだった。父たちも側にいない中、今までよりも大きな心の支えな存在だった。

あまり、2人の時は震災の話はしなかった気がする。おれもあまり話さない様にしてたけど、たぶん気を使ってくれてたのかな?

Q. 今は震災についてどう受け止めてる?

震災については受け止めようとはしていない。復興とか言っているだけで、震災を経験した人。家族を亡くした人。家を失った人にとっては、まだまだゴールなんて来ていない。

だって、7年経った今でも振り返ってみるとこんなに涙が出るんだ。何も終わっちゃいない。

震災復興は街が決める事じゃないと思う。一人ひとりが本当に元気を取り戻せて復興だと思う。

たくさんの人に感謝もしてます。勿論、お母さんにも。

震災から得たものは特に無い。
ただ、自分、家族の命だけは大切にする。

僕は今でも受け止められていない人だと思ってます。
ただ一つ、もう二度とこんな想いはしたくない。

インタビューを受けて

ここまで全て話してくれたことに本当に感謝。ありがとう。

当時、側で彼の様子を見ていたにも関わらず、改めて言葉にして振り返ってもらうとすごく胸が締め付けられた。

記事がすごく長くなったけど、彼の言葉ひとつひとつに重みがあって。どこも削ることなんてできなくて。

彼の言葉のまま忠実に書きました。

とくに彼の

「震災復興は街が決める事じゃないと思う。一人ひとりが本当に元気を取り戻せて復興だと思う。」

という言葉は本当にその通りだと思った。

街の風景は帰省するたび、どこになにがあったのか分からないほど変化しています。

でも、街の姿が綺麗になれば復興ではなくて、本当に一人一人の心の問題だと感じた。

 

そして改めてハッとさせられた命の尊さ。

今生きているこの命。大事に生きていますか?
あなたがいなくなることでこんなにも悲しむ人がいます。

今一緒にいる大事な人。大事にできてますか?
その大事な人が急にいなくなったら。あなたは何を伝えたいですか?その言葉を今日だけいい。まずは今日。私も大事な人に心から伝えようと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

最後になりますが東日本大震災によりお亡くなりになられた方々、ご遺族の皆様に対し謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

2018.3.11

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